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先輩メッセージ / Message25:中原徹先生

政治に進もうとは思われなかったのですか?

仮に私が政治家になれたとして、「授業の英語を使える授業にしよう」と言ったところで、きっと何も変わりません。政治家として1年間講演をしまくっても、現場の校長が私を相手にしなければ、何も実現はしないんです。だからこそ実質的に何かができそうな、教育現場の一校長というところに魅力を感じたんですよね。

昨今、企業ではグローバル人材を採用しよう、育てようとする動きがやっと出てきていますが、それでも日本は他のアジア圏と比べてみてもグローバル化が遅れている気がします。なぜ日本人はこんなにも危機感を抱かないのだと思いますか?

これはひとつの見方でしかありませんが。普通、国が戦争に負けると、コテンパンにやれてしまいます。ところが日本は当時、冷戦構造の中で、地理的にも経済的にも軍事的にも、非常にキーになる国だったわけなんです。そこでアメリカは、日本が育たないと自分の立場が困ると考えて、日本をよく言えば保護、悪く言えば利用することにしたのだと思います。こうした保護の中、日本人は頑張って、高度経済成長を成し遂げました。でもそれは冷戦構造という特殊な形の中で、使い勝手のいい国として、アメリカが援助してくれたからなのではないかと思います。経済成長を成し遂げた先人への大きな感謝の気持ちや敬意は当然持っています。その時代で最善を尽くされたのだと思います。しかし、これからを生きる我々がこれに甘んじてはいけない。いまの日本の状態が本当の独立と言えるのか、日本は確認することなしに今まで来てしまったんです。

そして、いわゆるバブル期あたりまでは、日本がアジアで一人勝ちできるような状況が当たり前でした。だから今、まさかアジア諸国が日本を追い抜いていくなんてことはあり得ないという感覚なのでしょう。中国はずっと開発途上国だろう、東南アジアもそうだろう。そう思っている日本人は少なくないはずです。日本人は、そういう虚像の中で、満足感や安心感を得ているのだと思います。でも考えてみれば、3000年、4000年の歴史の中で、中国よりも日本の国力が強かった時代なんてほんの一瞬ですよ。人口だって中国は日本の10倍ですから、それこそ10倍頑張ろうと言うぐらいの気概がなければ、負けてしまうのは当たり前のことですよね。

それに現在は、就職のマーケットでも世界はひとつになってきていますからね。世界で下のレベルの国の中の1位、2位なんて言ったって、話になりません。これからは世界基準で自分の実力がどこにあるのかというのを、中学・高校から意識していかないといけない時代だと思います。東大、京大、早稲田、慶応に行くぐらいなら、ハーバード、スタンフォード、オックスフォード、北京大学、台湾大学に行ったほうがいいかもしれない。そういう発想が出てくるのも、当然だと思いますよ。こうなることで日本と海外の大学が切磋琢磨してくれるなら、なお素晴らしい。

今の日本の教育が抱えている、一番大きな問題は何だと思いますか?

自己改革を拒む旧態依然とした状況です。日本の教育界は、年功序列で、勝手に給料が上がり、犯罪を犯す以外にはほとんどクビにもなりません。やはり教育界と言えども、一定限度の競争原理は取り入れるべきだと思います。競争原理というと、キーキー言う人もいますけれど、競争を生徒に持ちこむのと、教師に持ちこむのは別ですからね。そりゃ、競争に敗れた生徒をほったらかしにしろ、なんて言ったら、批判されて当然ですよ。でも私は、そんなことを言っているわけではないんです。

どこの業界にだって、頑張る人、頑張らない人はいます。しかし教師は公務員ですから、どんなに頑張らなくても、ずっと生活の保障を受けることができます。これはおかしいですよね。だからそこを変えようとしているわけです。

教育界において、教育委員会はどういった存在なのですか?

教育委員会は、自分達で目標を立てて、生徒、保護者のニーズも自分達で決めて、分析、評価も自分達でして、給料も自分達で決めています。よく大阪で、政治の声が教育にまで及ぶのは危ないことだ、と言われていますが、これは間違い。むしろ教育行政が何もかも勝手に決めていることが危ないですよ。だって教育委員会に入っている委員の方たち、それから現場の教師たちが、世の中のニーズを100%くみ取れるとは言い切れないじゃないですか。ニーズをくみ取らなくたって、教師の給料はあがっていきます。つまり日本の教育界は、聖人君子ばかりがいることが前提の思い切り性善説的な制度なんです。

今までの教育委員会は、保護者と生徒のニーズをわかっていて、子ども達が就職する経済界がどんな人材を欲しているかも、すべて理解しているというのが前提です。でも、現実問題として、そんなことは無理ですよ。しかも大阪には現在は6人の教育委員がいますが、5人は非常勤ですからね。それも会議は月1回しか開いていない。それで5万人はいると言われる教職員のことを把握して、何百校とある学校を理解して、経済界からの要請も踏まえて、それで施策も打てるかと考えたら、それはやっぱり無茶な話ですよね。

逆に日本の教育の良いところを教えてください。

仲間を思いやる、人を気遣うという教育は、世界一なのではないか思います。それから集団生活を大事にしていますよね。こういった美点は、必ず今後も遺さないといけないと思いますね。

それから、今はまたゆとり教育からより戻していますが、自分が受けた教育を顧みても、豊富な知識、教養を学べるのは日本の教育のいいところですね。受験地獄、詰め込み教育だなんて言いますが、基礎がなかったら海外でも恥をかきますよ。お決まりごと、基本事項はさっさと覚えて、覚えたうえで応用というものがありますから。基本は小さい時に叩きこまないといけませんよね。

現在、大阪の教育改革は、全国のメディアからの注目を浴びていますが、普通の学校教育関係者の反応はいかがですか?

メディアは、一部の偏った人達の声をやたらと強調しすぎですね。若手の教師なんかは、今の教育改革をとても歓迎していますよ。これからはボーナスの額も評価に沿って決められるようにしていこうという話をしていますが、頑張った教師がボーナスを多くもらって、頑張らない教師はもらえないというのは、やはり一般企業であれば当然ですからね。今まで教職員の勤務評価をしてきたと言っても、年間の金額で10~15万しか差がなかったんですよ。A先生は授業や部活の指導でとても頑張っていて、B先生はサボリまくっている。しかしその給料の上げ下げの幅が10~15万しかない。こんな状況じゃ、みんな頑張ろうとしないですよね。しかしそれが50万、100万違うと言ったら、話は変わります。若手の給料は年収400万、500万ですから、50万、100万と言ったら、その差は大きい。そういうことに関しては、若手は喜んでいますよ。

俺の方が実力があるのに何でアイツは高い給料をもらえるんだ、何でアイツの奥さんはキレイなんだ、何でアイツは俺よりいい家に住めるんだ。社会が、そういう妬みを一切捨てられる人たちの集まりなら、共産主義的なユートピアを作れます。だけど人間には必ず欲があるし、共産主義は立ち行かないというのは歴史的に証明されていますよね。しかし今の日本の教育現場では、教師の給料はほぼすべて一律で、共産主義に近いのだと思います。もちろんアメリカのように、勝ち組は年収100億円で、負け組はホームレス、という社会もおかしいですよ。だからそこはバランスの問題ですね。

日本の教育界が、共産主義に近いというのは、歴史的な背景もあるのでしょうか?

あるでしょうね。私は、そういった思想を持つ教師たちは、特別授業などで希望する生徒に自分達の思想について教えたらいいと思っているんですよ。もしかしたらそれは行きすぎた資本主義への反論なのかもしれないし、君が代を歌うことが軍国主義につながるということが仮に真実なのであれば、それはひとつの立派な意見であり、とりわけ教育現場では封殺すべきではありません。ただし、それは聞きたい生徒にのみ聞かせてあげられるような、特別授業でやるべきで、かつ、反対意見もバランスよく紹介すべきです。実際に本校ではそういう特別授業枠があります。セレモニーである卒業式や入学式は、そういったイデオロギーや歴史観をアピールする場ではありません。そこの区分けはきっちりすべきだと思いますね。

今後、中原先生が育てていきたいと思う人材を教えてください。

一言で言えば、グローバル人材です。では、グローバル人材とは何か。「異なる言語、文化、宗教の人々と、最大公約数的な相互理解ができる人」というのが、僕が考えるグローバル人材ですね。つまり言語、宗教、文化が異なる人は、それぞれ要求が違うわけですから、当然ぶつかります。完全に意見が一致すると言うのは、不可能と言えます。よく友愛精神があればみんな仲良くなれるなんて言いますけど、これは真っ赤な嘘ですよ。私はアメリカに行って、このことを痛感しましたね。

ところが、日本は意見が違う人とも、“空気を読んで”すり合わせることができる。だから日本ですり合わせてきた人達は、なんで外国ではそれができないんだろうと思います。そりゃ、完全にすり合わせて合意した結論のほうが気分はいいですよ。ドラマの終わり方だって、最後は100%わかりあえた、というほうが気持ちはいいです。しかしそれは現実世界では、あまりにメルヘンにすぎる発想ですね。

実際の国際舞台では、やはりお互いの要求がむき出しになります。その中で、お互いを傷つけあわずに相互理解をして、最大公約数的にお互いが潤うポイントを見つけようとする。そしてそのためにあの手、この手を使って説得していかねばならない。当然、そこには教養も必要です。相手の宗教もわかっていないのに、向こうは納得してくれるはずがないし、妥協点だって見つかりません。これは絶対言ってはいけない、これは守ってあげないと憤慨して暴れ出す、そういった相手の考えを理解するための教養も必要になってきます。

それからもちろん、コミュニケーション能力も必須です。コミュニケーション能力というと、「イエス、イエス」と言って苦笑いしていればいい、みたいな感覚がありますが、それは大間違いですね。これからのコミュニケーション能力は、説得できるか否かなんです。もちろん100%自分の要求を通すわけには行きませんよ。でもお互いに、なるほど、これがお互いが潤う最善の方法だな、と思うところまでは持って行かなくてはいけない。それが、これからのコミュニケーション能力だと私は思います。

私の個人的な経験から言っても、日本人は、相手にぐっと押されると、一生懸命に相手の言うことを聞いてしまいますよね。それでこれ以上は大変だから、黙ってしまおうと。そして後は自分の味方である会社の上司に相談して、社内的に体裁をつけようと。そして社内の体裁さえ守れれば、先方の言うことを黙って聞いてしまおう、という考えの人がやっぱり多いかなと思います。

でも、これからのグローバル人材は、ここで説得をする人間でなくてはいけません。だって何のために商談に来ているのかと言ったら、説得のためじゃないですか。国際的な議論の場で、相手の倍しゃべっているという日本人は少ないですよね。もちろん話す量だけでは決まらないけれど、量も大事な要素ですよ。

ハーバード大学のビジネススクールで、日本人が嫌がられると聞きました。これはあまりにも日本人が発言しないから、授業に貢献していないと見なされているからだそうですね。

そうですね。韓国人も中国人も、内容的に日本人がひっくり返るようなたいしたことは話していません。でも話すこと自体が会議や授業に貢献しているのだということに、日本人は気づいていないんです。だから授業にも会議にも、もう来なくていいと言われてしまう。議論の場で重要なのは、発言の量と声のデカさですよ。言語や宗教が違う人と話すときなんかは、ほとんど相手の言うことなんて聞いていません。それはもう存在感の示し合いですからね。いかにデカイ声でいっぱい話すか、が大事なんです。

弁護士時代ですが、論争になることが予想される、ある交渉がありました。相手は弁護士を含め、エグゼクティブが7、8人。そしてこちら側は味方のアメリカ人ビジネスマン1人と私だけ。そしたらそのアメリカ人が7、8人を相手に、しゃべりまくるんです。そして声も誰よりもデカい。交渉が終わった後、しゃべりすぎなんじゃない?と聞いたら、ああいう場ではよりデカい声で多く喋った方が勝ちなんだ、と言うわけなんです。確かにあのとき、彼がしゃべりまくらなかったら、交渉は押されていたでしょうね。日本では、そういう強い主張は、空気を読んでいないと疎まれてしまいます。でも外国は、そもそも読む空気がないですからね。

ただ、先程言った通り、気配り、思いやりは持つべきです。それは日本国内では大事だし、海外でも使うべきところで使えばとても効果があります。でも気ばっかり遣って、言いたいことが言えないというのは、これは絶対に間違いです。だからそこは、2つのスタンダードを上手に使い分けないといけないと思いますね。