VOICE

先輩メッセージ / Message25:中原徹先生

2010年、全国最年少の校長として大阪府立和泉高等学校の校長に就任した中原徹先生。国際弁護士から民間人校長となった中原先生に、教育に対する思いや日本の教育の問題点、育てるべき人物像など、たっぷりお話を伺いました。

PROFILE

中原 徹(なかはら とおる)

1970年神奈川県出身。
早稲田大学法学部卒業。東京永和法律事務所にて2年間弁護士を務めた後、渡米。ミシガン大学ロースクール卒業後、ロサンゼルスのPillsbury Winthrop Shaw Pittman 法律事務所に勤務。のちにパートナー弁護士に。
2009年、大阪府教育委員会公募の民間人校長に応募し、採用される。2010年大阪府立和泉高等学校の校長に就任。現在に至る。

2009年までは弁護士として働いていた中原先生ですが、そもそも弁護士になろうと思ったのはなぜだったのですか?

小さい頃は、野球選手になりたかったんです。でも小学校高学年になると、町内で「アイツはすごい!」というような噂を呼ぶ奴が出てくるわけですよ。ところがそんな噂の男でも、地区大会では勝てなかったりする。あんなピッチャーを打つ奴がいるのか・・・と思うと、自分は無理だなと。それからブラックジャックやシュバイツァー博士に憧れて、医者になろうと思ったこともあるけれど、理数系は苦手だしこれもダメだと。

そんな風に選択肢が削られていく中で、高校生のときに、セルシオか何かのCMでかっこいい国際弁護士が出ていたのを見たんです。それで、自分は人と話すのは嫌いじゃないし、国語も苦手じゃないし、これだったら向いているかもしれない、と思ったんですよね。それが弁護士を目指そうとしたきっかけですね。

弁護士時代はどんな仕事をされていたのですか?

東京永和法律事務所という事務所で、スポーツや映画、音楽など、エンターテインメントを始めとする企業法務・裁判を専門としていました。その事務所は、定時が朝9時から夜の11時。私は26歳で弁護士になりましたが、初任給は1500万。当時、金が良すぎて危ない、と言われるぐらいの事務所だったんですよ。でもまあ、一生に一度ぐらい過労死するほどの忙しさがどのぐらいなのかを味わっておこうと思いまして(笑)。事務所は厳しかったですが、今では本当に感謝しています。

その後、中原先生はアメリカに渡ることになりますが、東京永和法律事務所に入った時点で、留学は考えていたのですか?

どこかのタイミングで留学してみたいというのは考えていましたけど、まずは日本で一人前になろうと思っていました。ところが弁護士として働く中で、スーパースターと言われる日本の国際弁護士にたくさん出会ってみると、特に対英米人の場面で頼りなく感じるんですね。そもそも日本の国際法律事務所はアメリカのいろんなシステムを真似していますしね。

それで、そんなにアメリカ人はすごいのか、という疑問が自分の中で湧いてきて。しかもこんなに朝から晩まで働いて、20年、30年働き続けても、まだその上にアメリカ人がいるとするなら、当然面白くないじゃないですか。アメリカ人はどれだけすごい連中なのか、一度は見ておきたい……。弁護士1年頃からそういう思いが悶々と湧きあがってきて、もう2年目には行く準備を始めていましたね。

渡米後は、まずロースクールに入られたのですか?

ええ。本当にすごい人間なら、いきなり米国の法曹界・ビジネス界に飛び込んで、という方法もあったかもしれませんが、自分はそんなにスケールの大きい人間ではありません。やはり学歴を持たないと、アメリカでは認められませんから、まずはロースクールを入り口に考えました。

それでトップから17位までのロースクール17校に願書を出しました。その中で、ニューヨーク大学とかペンシルバニア大学など、いくつかのロースクールに受かることができたんです。そこで高校の頃からアメリカに住んでいる妹に相談したところ、「アメリカは学歴社会なんだから、一番評価の高いところに行け」と言われまして。結局、受かった中で一番評価が高かったミシガン大学のロースクールに決めました。ただミシガンは、本当に寒かったですね。人類が住む所じゃない、と思うぐらいでした。

そこから10年、アメリカにいらしたんですね。

そうです。ミシガン大学時代を入れたら、10年以上ですね。ロースクールが終わってすぐにニューヨークの弁護士の資格を取ったのですが、最初は弁護士ではなく、法律の知識を使ってビジネスの道に進もうと思っていたんです。だから就職活動も、大手の映画会社やテレビ局、スポーツ・エージェンシーなど、エンターテインメント系の企業にしぼっていたんですよ。ところが、面接すら実現しにくい。そのうち、アメリカの大手エンタメ業界は新人を雇わないということがわかって。しかたなく今度は弁護士の就職活動を始めて、それでたまたま、ロサンゼルス(LA)にある大手法律事務所に受かることができたんです。

ただ、最初はその事務所にもちょっと腰かけ程度に在籍して、LAでいろんなコネクションを広げて、それから念願のエンタメ企業に入ろうと思っていたんですよ。ところが仕事をしていくうちに、映画やスポーツ、音楽に関する仕事が入ってくるようになったんです。しだいに、エッ!と思うような大物が絡む仕事なんかもできるようになって、これなら別にエンタメ企業に転職する必要もないなと。

LAの事務所ではパートナー弁護士にまでなられたのに、日本に帰ってこようと思われたのはなぜですか?

私は、普通の子どもとして横浜で育って、大学に入って、司法試験は受かりましたけど、決して優秀な弁護士ではありませんでした。そんな人間が、いわば度胸だけでアメリカに行ったわけですよね。それでも、何とかもがいているうちに、一つの形にはなったと思っています。それを考えたときに、もっと力のある日本人はいるのにもったいないな、と思ったんですよ。力のある日本人はたくさんいますが、彼らの多くは、向こうで勝負しようというのではなく、向こうで箔をつけて日本に帰ってこようと言うメンタリティにある。

結局、日本は世界でバカにされています。英米を中心にしたアングロサクソンが威張っていて、目に見える差別はないけれど、目に見えないところでいろんな差別があります。その中でも何くそ!と思ってやれば、必ず形になる。そう考えると、もっと日本人は世界でやれるのにもったいない、といらだつ気持ちになったんです。

ところが変なプライドが固まってしまった東大生等の所謂エリート層に、すべてを捨ててゼロから勝負しろ、と言っても、これは無理な話なんですよ。彼らの多くは、今までチヤホヤされてきたところにプライドやアイデンティティを求めています。そのまま褒められる世界でしか、挑戦することはできません。彼らに「お前の学歴なんてどうでもいい、力を世界で見せてみろ」と言ったところで、きっと行きたがらないでしょう。重要なのは、勝負しようとする気持ちです。日本の優秀な人材がその気持ちを変えることができれば、いくらでも勝負できる。世界のリーダーになる力がある。じゃあどうすれば気持ちを変えられるか。それには教育しかないだろうと。

しかし、先程言ったように、妙なプライドが凝り固まった大学生から教えても、ちょっと遅いですよね。かと言って小学生を教えるとすると、どれだけ時間がかかるかわからない。自分がやってきたことが理解できる年齢で、かつプライドが固まっていない年齢を考えると、高校生がいい。しかも経済的に恵まれない人にほどチャンスは与えられるべきですから、公立高校での教育を変えたいと思ったんです。

そんな風に考えていたら、たまたま大学の同期・・・といっても大学1年の金曜日の授業で1コマだけ一緒だった橋下知事(当時)が、大阪の首長として教育改革を進めようとしていたんです。普通は、一民間人として毛色の違う奴が高校に来て、何か変えようと言ったって、ただ消されてしまったり、相手にされないで終わります。しかし橋下知事が首長にいるということは、首長と現場の学校で、教育委員会と教育行政をサンドウィッチみたいにはさむことができる。これは一種の巡り合わせだなと思いましたね。例えば、首長が「こんなことをしたら」と言っても、委員会が「現場では無理ですね」と言うことがあります。しかし本当の現場から「できるよ」と声を上げることができる。成功事例にもなれるし、本当の課題や問題点も届けることができると思ったんです。