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先輩メッセージ / Message20:ソーシャルファシリテーター 中野裕弓さん

元世界銀行の人事カウンセラーであり、「世界がもし100人の村だったら」の原訳者でもある中野裕弓先生。現在はソーシャルファシリテーターを名乗り、幅広い活動を行っている中野先生に、世銀での経験や今後の夢についてお話を伺いました。中野先生の人柄そのままの明るくポジティブなメッセージをどうぞ!

PROFILE

中野裕弓(なかの ひろみ)

カウンセラー、人事コンサルタント。短大在学中にイギリスに留学。東京の外資系銀行での人事を経て、1993年、ヘッドハントを受けて世界銀行本部へ。日本人初の人事マネージャーおよび人事カウンセラーとして、多国籍の職員のキャリアや人間関係のアドバイスにあたる。日本に帰国後独立し、1998 年から全国各地での講演活動やキャリア・コーチ、企業の人事コンサルティングなどの仕事に携わる。最近はソーシャルリースという構想を打ち立て、世界中の人々が有機的につながる社会のあり方を提唱。現在、認定NPO法人、スペシャルオリンピックス専務理事も務める。

まず「ソーシャルファシリテーター」という職業は、いったいどのようなものなのでしょうか?

最近、私は「ソーシャルリース=社会の環」という新しい社会作りの構想を考えています。世の中には得意技を持った人がたくさんいます。その得意技を自分のためだけでなく、周りの人のためにも回していけば、相乗効果でもっといい世の中になるのではないか。また世の中には世界が平和に安定するために必要なものがもうすべて揃っている、ただその流通が滞っているのだと私は考えます。そこで、その流れを促すコーディネーターの役をやりたい……。それで思いついたのが、ソーシャルファシリテーターという仕事です。「ファシリテイト(facilitate)」というのは、ご存知のように英語で促進すると言う意味ですから上からトップダウンで命じるのではなく、自発的な人々を巻き込んで社会のしくみを変えて行こうというのが、私の目指すソーシャルファシリテーターなんです。

簡単に言えば、スペシャリストの輪をつないでいこうとされているんですね。

そういうことです。たとえばチャイルドケアを職業にしている人がいて、農業をやっている人がいて、パソコンのオフィスを持っている人がいて、お豆腐を作っている人もいる……。みんながつながれば、すごく面白い世の中になるはずです。

そして皆が繋がってまるでクリスマス・リースの輪っかのようになれば、その輪に繋がりさえすればだれでも必要なものが必要なだけ手に入る世の中になります。一人ひとりが余分に持っているものが、その輪の中に流れ出して、ぐるぐる回って、そして足りないところに辿りつくわけですから。 たとえば私はカウンセリングというスキルを持っています。「ソーシャルリース」があれば、私のスキルもどこかでカウンセリングを必要としている人に届けることができる。お金がたくさん持っている人が輪の中にいるなら、お金が回る。それから知恵が回る、体力が回る……。話し出すと、とまりません(笑)

では、その考えに至るまでの中野先生の歴史を振り返りましょう。小さい頃はどのようなお子さんだったのですか?

本が大好きな子でしたね。子ども向けの偉人の伝記やファーブル昆虫記などを読むのが大好きでした。両親には本ばかり読んでいないで、もっと外で遊びなさいと言われていたのですが、残念ながら少しもアウトドア派ではありませんでした。その頃から、漠然と外国、そして英語には憧れを抱いていたと思います。確か中学生や高校生の頃には、英語を使う仕事をしたいと思っていましたね。それも英語の文学者になりたいのではなくて、コミュニケーションの手段として英語を使いたいと考えていました。

18歳でイギリスに留学されていますが、きっかけは何だったのですか?

私は少しでも早く社会に出たいと思っていたので、小中高の一環の学校の後、神奈川県立外語短大に進んだんです。そして1年が終わるころ、同窓生の友達が「イギリスに面白いプログラムがあるよ」と言って、パンフレットを持ってきてくれたんです。それが「オーペア」という留学プログラム。外国人の子女がイギリスに行って、各家庭に住みこんで、子どもの世話や、犬の散歩とか軽い家事の仕事をしながら午後に語学学校に通う、そういうプログラムだったんですよ。

私はそれまで実家暮らしでしたから、やはりひとりでの留学は怖かったんですね。でも向こうのご家族に後見人になってもらえるなら安心だというのもあって、参加してみようと思ったんです。それに留学生は同じ留学生ばかりと付き合っていては英語がうまくならないという落とし穴がありますが、普通の家族なら生の英語に毎日触れられますから。よく外国語を学ぶなら外国人の恋人を作れば上達するという話も聞きますが、そうでもないようですよ。だって心が通ったら、言葉なんていらなくなったり・・(笑)

その点、普通の英国人の家庭で子どもたちを相手に話すと言うのは、私にとってとても良い経験でした。というのも、大人は歩み寄って少しでも理解してくれようとする。ところが子どもたちは私の言葉をわかろうとしてはくれないんですよ。うまく伝わらなければ「何言っているかわからない」とバッサリ。 私がお世話になったのはやんちゃな小学生の男の子が2人いる家だったのですが、彼らに相当鍛えられました。

当時の目標を教えてください。

とにかく語学を学んで、早く使える英語をモノにして、そしてそれを使って仕事がしたい、そう思っていました。当時は英語を使う仕事というと、翻訳家や通訳、英語の先生くらいしか考えられなかったのですが、そのどれも私がなりたい職業ではなかったですね。先程もお話したように英語はコミュニケーションの手段にしようと決めていたんです。だから英国に滞在していた時も、書くことより話すことに重きを置いて、特別にスピーチのレッスンを受けに行ったりしていました。

留学生活でとまどったことがあれば教えてください。

とにかくはじめは英語が全く通じなかったということに尽きますね。学校で英語を数年学んできたはずなのに それでもわからなかった。しかも、私達が授業で習って来たのはアメリカ英語だったんですよね。スピーチクラスでは「That's American. You have to speak English」って言われてまるで映画『マイフェアレディ』のように口にマウスピースを入れて、米語を英語にする特訓も受けました。

それからもうひとつ、言葉を返すタイミングにも苦労しました。「Yes」「No」という簡単な返答でさえタイミングがつかめないんです! まるで大縄跳びに入るタイミングを待つかのよう「あ、あ」って言っているうちに、話題が次に移ってしまう・・・。留学して1年間は、「Yes」「No」も自信を持って言えない状態でしたね。下手に言うと子どもたちに揚げ足を取られて・・・1年間はじっとこらえてとにかく英語を耳で追いかけていました。その後、なんとなく感覚として理解できるようにはなってきたのですが1年たっても、「英語が武器」と胸を張って言えるまでにはなっていなかったんです。それで親と短大に留学の延長を頼んだんです。でも2年滞在していてもどれくらいうまくなるかわからないし迷いはありました。ところが2年目に入った時、ある時点で突然飛躍的に上達するんですよ。それはまるである朝起きたら、家族の会話がすべて理解できた!ラジオの放送がすべてわかった!そういう感じです。英語の上達はまるで階段状。結果が出なくてもコツコツ積み重ねていくとあるとき突如、一気に段を上っているのに気付く。英語が上達するとはこんなものなのか、とびっくりしましたよ。そこからは耳からの英語が理解できるようになったので、あとは話すスキルに専念しようと思いました。

話すスキルは、どうやって伸ばしていったのですか?

私は当初、中級クラスに入ったんです。ところがそこで一緒に肩を並べているヨーロッパからの留学生は、英語学習歴3カ月とか、6か月と言うんですよ。私は英語を学んでかれこれ7年でした。でも3カ月とか言っている人と、さほど話す能力は変わらない。見ていると、短期間で話せるようになっている人は、スペイン系、イタリア系など、ほとんどラテン系の人たち。語ることが大好き、話さないといられない国民性なんですよね。英語がうまくなるには、まず自分が話したいという強い動機が必要だと思いました。

おしなべて私達日本人は、自分の思いをとうとうと語るという訓練はしていませんよね。記憶力を鍛える学習はしても、語る内容を充実させるという教育ではなかったのです。スピーチのレッスンでは、そこを徹底的に鍛えられました。例えば授業で、先生が私を指名して、「Ash Tray」と一言。アッシュトレイ、灰皿・・・何?。それがお題なんです。指された人は前に出てくるまでの間に、そのテーマで3分間スピーチを組み立ててしゃべる、そういうレッスンでした。テーマが日本の文化、歴史だったら、ちょっとは用意していました。茶の湯とか、お城とか、仏教とか。でもアッシュトレイと言われて、灰皿について延々話すことはできなくて……。 灰皿を知っていても、それについて語る内容を持っていないという事実。それは私にとってすごくショックでした。

そしてイギリスから帰ってきて、その後は外資系銀行に?

いいえ、まだそこまではいきません。短大を卒業してから、英語力がまだ足りないと思い、再度イギリスに行ったんです。今度は1年間英語の教育法、母国語を使わないダイレクトメソッドについて勉強しようと思いました。そしてイギリスで学んで帰国後は子どもの英語教室のカリキュラムを作る責任者になりました……。が、やってみて、向かないということに気が付いたんですよね(笑)。

それで方向転換、アメリカンエクスプレスの銀行部門にジュニア・セクレタリーとして先輩秘書の見習いとして入りました。そこは初めてのビジネスの現場の仕事で緊張しました。そのころはファイルの仕方も知らないし、英語でのレポート書きや会議の議事録の取り方も初めてだったので、相当鍛えられましたね。

本当に基礎の基礎から入ったんですね。

そうです。でも動機は・・・多分・・私、キレイな外資系のオフィスに憧れていただけなんですよ、軽いでしょ(笑)。くるぶしまで埋まっちゃうようなフカフカのじゅうたんがしいてあって、ひとりひとりのスペースが大きくて、しかも外国人と仕事の話ができて……。ただただかっこいいイメージがあったんですよね。でもその後、男性の多い社会の中でのキャリアアップに真剣になってきました。