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先輩メッセージ / Message17:パティシエ 辻口博啓氏

世界のスイーツ界を牽引し続けるパティシエ・辻口博啓氏。和菓子屋の息子として生まれた辻口氏がなぜ洋菓子の道に進んだのか、どのような経験を積んでスーパーパティシエと呼ばれるまでにいたったのか、その半生についてお話を伺いました。製菓留学を目指す人は必見の先輩からのメッセージです!

PROFILE

辻口博啓(つじぐち ひろのぶ)

1967年石川県生まれ。高校卒業後、都内のフランス菓子店、及びフランスで修業。1990年、史上最年少の23歳で「全国洋菓子技術コンクール」優勝。1994年「コンクール・シャルル・プルースト」銀メダル、1995年「クープ・ド・フランス インターナショナル杯」優勝、1997年「クープ・ド・モンド(ワールドカップ)」最年少で個人優勝など、国内外のコンクールで賞を獲得。1998年、自由が丘に「モンサンクレール」オープン。その後、「自由が丘ロール屋」「和楽紅屋」など、コンセプトの異なるお店をオープン。2006年には、石川県で「博啓美術館 ル ミュゼ ドゥ アッシュ」を開館。

ご実家は和菓子屋だったそうですが、何がきっかけでパティシエを目指すようになったのでしょうか?

小学校3年生のとき、友達のバースデーパーティーに招かれて、生まれて初めて生クリームのショートケーキを食べたんです。それがあまりにもおいしくて、僕はお皿までなめていたんですよ。そしたら友達のお母さんが「君の家にはこんなにおいしいお菓子はないでしょ?」と言うんです。その言葉は非常に悔しかったのですが、まあ、お皿をなめていましたからね。反論はできませんでした(笑)。でもその悔しさ以上に、洋菓子に対する興味が大きくて。こんなにおいしくて、感動できるお菓子があるのなら、いつか自分が作って誰かに食べさせたいと思うようになったんです。

それまでは大きくなったら和菓子屋を継ごうと考えていたのですが、和菓子は父親が作れるので、僕は洋菓子の勉強をして、いずれは石川で父親と二人で和菓子と洋菓子のお店をやっていけたらいいな、と思いました。ただ、18の時に家業の和菓子屋が倒産してしまったので、その希望は叶わなかったのですが。

高校を卒業してすぐに東京の洋菓子店に入社したそうですが、修行時代に一番苦労したのはどんなことですか?

苦労という苦労はなかったですけど、職人の厳しさは受けたと思います。朝は5時に起きて、仕事が終わるのは夜12時過ぎ。その仕事といってもイチゴのヘタを取ったり、ケーキの帯を巻いたりといった作業が中心で、何か素材を扱って仕込むというような作業はやらせてもらえませんでしたよ。

辻口さんは若いころから様々なコンクールにチャレンジしていますが、それはどういった戦略だったのですか?

初任給は4万5000円でしたし、当然お店を持てるようお金はありません。コネもないし、金もないし、これからどうやって人生を切り開いていけばいいのだろう。何に投資すればいいのだろう……。そう考えると、それはやっぱり自分のスキル、お菓子作りの技術力しかない。そして何によって自分の技術力が高いことを証明できるかつきつめて考えていくと、それはコンクールだな、と。コンクールに出ることによってメディアが追ってくれるし、メディアが自分の存在意義や価値を高めてくれる。コンクールで賞を取った上で自分自身の存在価値を高めて、そこから自分の人生を切り開いていこうと考えたんです。研究のためにコンクールで優勝したお店にはしょっちゅう通っていましたし、素材を知りたくて時にはその店のゴミ箱をあさることもありましたよ。

その頃、感性を磨くためにしていたことはありますか?

もちろん感性も大事だとは思うけど、コンクールへの思いはもはや執念や怨念みたいなものでしたからね。コンクールで優勝した作品を枕元に並べて、毎日のようにそれを眺めて、自分自身のモチベーションを高めていました。芸術的なものでいえば、美術館に絵画や彫刻を見に行くことはしていましたね。

それは今もやっているのですか?

最近はコンクールには出ていないので、そこに時間を割くことはありませんが。24時間お菓子のことを考えていると、何を見てもお菓子に直結していきますから。変な話、青い空を見ているだけでもお菓子をイメージするんです。ある意味、訓練というか、若いうちからお菓子を何かと結び付けられないかということを考えているので、自然とそうなってしまいました。

当時の夢を教えてください。

お店を持つことですね。そのために存在価値を高めて、自分自身をより高く買ってくれる企業のオファーを待つ。そういう戦略でした。