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先輩メッセージ / Message09:心臓外科医 須磨久善先生

“神の手”を持つと称される心臓外科医・須磨久善先生。須磨先生は、日本初のバチスタ手術をはじめ、数々の難手術に挑戦。これまで何千人もの命を救ってきました。世界中から注目を浴びる天才医師に、医者にとって必要な精神力、そして日本人が養うべき資質について、じっくり語っていただきました!

PROFILE

須磨久善(すま ひさよし)

1950年兵庫県生まれ。大阪医科大学卒業後、虎の門病院の外科レジデント(病棟医)となる。順天堂大学胸部学科、大阪医大胸部学科を経て、1982年ユタ大学に留学。帰国後、世界初の胃大網動脈を使った冠動脈バイパス手術を成功させる。1989年、心臓外科手術で有名な三井記念病院の循環器外科科長に就任。1994年、ローマ・カトリック大学 ジェメリ総合病院に客員教授として招かれる。1996年、日本に帰国、湘南鎌倉総合病院の院長に就任。日本初のバチスタ手術を行う。2000年、葉山ハートセンターを設立し初代院長となる。2005年、心臓血管研究所のスーパーバイザーに就任。現役の心臓外科医としてだけでなく、ドラマ『医龍』や映画『チーム・バチスタの栄光』の医事監修を務めるなど幅広く活躍する。

まず、医者を目指すようになったきっかけを教えてください。

僕の家系に医者はいなかったので、誰かを見て医者になろうと思ったわけではないんです。たまたま僕が通っていたのが、神戸にあるエスカレーター式の学校だったもので、大学受験のことを心配する必要がなくて。みんな中学生の時点で、将来どんな職業に就こうか、ということを真剣に考えていたんですよね。それで僕も将来のことを考えてみたのだけど、どうにもサラリーマンになって大企業に勤めるというのは、向いているような気がしなくて。もう少し、マンツーマンで人と向き合って仕事ができるような職業がいいな、と漠然と思ったんです。

それを突き詰めて考えていったら、医者がポンと思い浮かんだんですよ。医者は患者とさえ付き合っていればいいわけで、別に社長の言うことを聞くわけでもないし、突然どこかに転勤させられたりすることもないし。10代のころから、組織に振り回されたくないという思いがあったんでしょうね。その上、医者は人助けにはなるし、みんなに喜んでもらえる。よくよく考えると、いい職業じゃないですか。

その中で、とりわけ心臓外科医になろうと思ったのはなぜですか?

当時、海外の医療物のドラマがブームだったんですよ。「ベン・ケイシー」とか「ドクター・キルディア」とかね。特に、ベン・ケイシーは凄腕の脳外科医で、ものすごくカッコよかった。その影響で、僕も医者になるなら外科医だなと(笑)。その後、僕が医学生だったときに、世界初の心臓移植がトップニュースになったということもあって。人の体に同じくメスを入れるのであれば、命に一番近い心臓を治してあげられる心臓外科医がいいな、と思ったんです。

医学部卒業後は、虎の門病院に就職されたんですよね。当時は大学病院の医局に進む人が多かったと思うのですが、なぜ一般病院に?

ひとつの理由としては、東京に住んでみたかった(笑)。神戸もいい街なんだけど、しょせん小さな地方都市ですから。地方の大学を出て、地方の大学病院の医局に入局して、関連病院をうろうろして一生を終ると言うのはもったいないし、さみしい気がしたんですよ。虎の門病院は、日本でもトップレベルの病院ですし、いい教育も受けられますからね。

33歳のときには米国のユタ大学に留学されていますが、それはどういうきっかけで?

まず、アメリカに一度は行きたかったということ。それから当時、ユタ大学では、人工心臓を体の中にまるごと埋め込むと言う手術を行っていたんです。心臓移植と人工心臓というのは最先端の技術ですからね。そういう新しい手術をやっているところで、実際に勉強してみたいと思ったんです。

須磨先生が感じた、米国と日本との違いを教えてください。

米国は手術の流れが相当スカっとしていましたね。まったくもって無駄がない。それから病院そのものがスカっとしていて、鬱陶しくない。日本の手術はまどろこしいし、病院だってあんまり居心地がよくない。そのギャップを真っ先に感じましたね。

だいたいにおいて今の日本人は、引き算が大事なんてあんまり思っていないですよね。足すことしか考えていない。でも引き算の考え方は、昔からいろんな国にある。たとえば老子の基本理念は引き算。余計なものは省いて行くというのが老子の教えですね。それから日本の茶道。お茶の作法は、本当に無駄を徹底的に省いています。引き算を突き詰めていって本質だけを残すというのは、効率的な考え方なんです。でもそれが特筆されるということは、あんまり一般大衆はやっていないということなんですよね。洋服ダンスを開けば、これ買いたい、あれ買いたい。勉強しようと思ったら、これ知りたい、あれ知りたい。この知識はいらない!捨てちゃおう!という作業はあんまりしないでしょう? よっぽど引くことのほうが大事で、引くことで得られるものがあるって気付かないかぎり、引き算ってできないんですよね。

先生は、1983年に胃大網動脈を使った冠状動脈バイパス手術(※1)というオリジナルの術式を発表されています。当時の日本の反応と世界からの反応は違ったものでしたか?

(※1)心臓に血液を供給する冠状動脈が詰まったことが原因で起こる、虚血性心疾患に対する手術。冠状動脈に他の血管をつなげてバイパスを作ることで、血液の流れを回復させるというもの。須磨先生は、胃大網動脈をバイパスとして使うことを考案した。

うん。日本は変な手術、アメリカはすごい手術(笑)。やっぱり日本と世界では、新しいものに対するリアクションは、どんなことでも違いますよね。それはもう、民族性というか、国民性だよね。

日本人が見直す点があるとすれば、何だと思いますか?

今の日本というものが激変しつつあるから、よくわからないですよ。昔に比べれば、日本は“Something Different”をポジティブなものととらえ始めているし、個性的な人間を英雄視するようになっています。でも、そういう個性的な人たちが日本の中でしっかり育つかというと、それはまだ難しいと思う。結局、中田にしてもイチローにしても、彼らが日本にいたときには、結構ボロクソに言う人もいたじゃない? しかもオーソリティの人たちは、決して拍手喝采なんてしなかったよね。言うことは聞かない、足並みを揃えない。そう言って煙たがっていたでしょう。彼らは、日本を出て、はっきり見える形で偉業をやってのけたから、日本人は手をパチパチと叩いて称賛しているんですよ。

そうは言っても、30年、50年前だったら、イチロー、中田はこんなにヒーロー扱いをされなくて、国賊と言われていたでしょう。それが今はヒーローと言われているわけですからね。そういう点では、やっぱり日本は変わってきているんです。だから次の20年、30年後には、日本と言う国の中でスーパーヒーローが育って、そしてそれをきちんと応援していける感覚を養っていかなければいけないと思います。

帰国後、大阪医大、三井記念病院を経て、1994年にはローマ・カトリック大学ジェメリ総合病院に移っていらっしゃいますよね。これはどうしてなのですか?

このころは、もう30カ国ぐらいでバイパス手術の講演や公開手術をやっていたので、いろんな国の病院からオファーが来ていたんです。その中でも、イタリアは行ってみたい国だったんですよね。しかもジェメリ総合病院は、日本では知られていないけれど、イタリアではとても有名で、ローマ法王が通う病院。大変名誉なことですから、これは行くしかないだろうと思いました。

コミュニケーションは苦労されませんでしたか?

英語が通じると思ったら、大間違いでした(笑)。日本で英語を話すようなものですよ。みんなイタリア語で、ほとんんど相手にならない。タクシー乗ってもダメ、スーパー行ってもダメ、おまけに看護師に話そうとしてもダメ。もう手術もできませんよ。しかたがないから、簡単なイタリア語は覚えました。でも、まあ語学なんて、その気になれば難しい話じゃないですよ。

ローマは、すごくいいところでね。このままローマに住もうかとも思ったんですよ。でもそうこうしているうちに、拡張型心筋症に対するバチスタ手術(※2)やら人工心肺を使わないバイパス手術などの新しい手術方法がどんどん出てきて。「日本に住む人にも、そういう最先端の手術をしてあげたい」と思って、帰国することにしたんです。

(※2)ブラジル人のR・バチスタ医師が考案した心臓手術。拡張型心筋症に対して肥大した心臓の1/3を切りとって縫い縮めるという画期的な術式だが、非常に高度な技術を要する。

最初にバチスタ手術のことを知った時、どんな感想をお持ちになりましたか?

信じなかったですね。ありえないと思いました。